今から80年前の1941年1月8日、時の陸軍大臣東条英機が軍人の心得と行動規範を制定した。「戦陣訓」だ。「生きて虜囚の辱を受けず」=捕虜になることを禁じたことで知られる。 【写真】ソ連兵の「性接待」を命じられた乙女たちの、70年後の告白 近代国際法に裏打ちされた捕虜扱いの常識をちゃぶ台返しするような内容を含むこの示達の全体はどのような内容で、なぜ出されたのか。当時の軍人はどう受けとめていたのか。戦争にどのような影響を与えたのか。「戦陣訓世代」の司馬遼太郎の回顧などから振り返りたい。
「戦陣訓」とは何だったのか
1937年7月に始まった日中戦争は、4年目を迎えても停戦の見通しが立たなかった。当時の日本の主力産業は農業だったが、農村から多数の青年が軍隊に召集され戦地に向かった。戦争が長期化するにつれて戦死者は増える。何のための戦争なのかもよく分からない。兵隊に送り出す家族の不安がつのるのは当然であり、送り出される兵隊の士気が上がらないのは必然である。 折から、中国戦線における日本軍兵士による暴行や略奪も行われていた。南京事件がそうであったように、中国戦線の日本軍のふるまいは世界が注目していた。大日本帝国陸軍としては、心構えも行動も正しくするようにと兵士に呼びかけ、呼びかけたことを内外に広く知らせる必要があった。 こうした背景から示達された「戦陣訓」は「序」から始まる。 「夫(そ)れ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍(あまね)く皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威(みいつ)の尊厳を感銘せしむる処なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず」 「日本軍は天皇の命に基づき、戦えば必ず勝つ。天皇による政道を広く知らせ、敵に天皇の威光を感じさせる……」。その「序」以下、三つの「本訓」、「結」からなる「戦陣訓」の作成には、文豪の島崎藤村、志賀直哉、哲学者の和辻哲郎も関わったとされる。 「本訓」1は「皇国」「皇軍」「軍紀」「団結」「必勝の精神」など7項目からなる。「本訓」2は「孝道」「責任」「死生観」「名を惜しむ」「質実剛健」など10項目。「本訓」3は「戦陣の戒め」「戦陣の嗜(たしな)み」の2項目だ。
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