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Sunday, July 31, 2022

だから中国共産党は増長した…天安門事件のときに「対中配慮」に駆け回った親中派の自民党議員たちの罪 麻生太郎氏らは「毅然とした対応が必要」と立ち向かったが… - PRESIDENT Online

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なぜ中国共産党は一党独裁を続けられているのか。人民解放軍が民主化運動を武力弾圧した1989年の天安門事件では、日本政府から厳しい責任追及はなかった。その背後には、当時の宇野宗佑首相をはじめとする親中派の国会議員の圧力があった。北海道大学大学院の城山英巳教授の著書『天安門ファイル 極秘記録から読み解く日本外交の「失敗」』(中央公論新社)より、一部を紹介しよう――。
日本と中国の握手

写真=iStock.com/Zerbor

※写真はイメージです

所信表明演説で天安門事件に触れなかった宇野首相

「流血」前日、首相に就任した宇野は、事件翌日の1989年6月5日に行われた所信表明演説で中国情勢に言及しなかった。これには批判が集まったが、宇野はなぜ触れなかったのか。

6月7日、所信表明演説に対する各党代表質問があり、宇野は公明党の石田幸四郎に対して中国に邦人8000人がまだいる中で、「慎重な配慮が必要な時点でございましたので、何卒ご理解を願いたい」と述べた。

内戦の危機が伝えられた北京。日本航空と全日空は6日以降、臨時便を出す中で、宇野は社会党の土井たか子委員長の質問にこう答えた。

「やはり飛行機もどんどん出さなくちゃいけません。混乱した地に飛行機をおろすためにはやはり政府は政府としての慎重な態度が必要でございます。どなたを敵にまわしても邦人の救済ができないということになれば、たいへんなことでございます」

中国政府の機嫌を損なえば、邦人脱出の飛行機の運航にも支障が出かねないという懸念である。「だから私はさような意味で過般の所信表明の冒頭においても、このことには敢えて触れなかったわけでございます」と認めた。

しかし中国政府を非難する国内世論が高まっていた。これまで対中配慮を優先した宇野も土井の質問にこう言わざるを得なかった。

「銃口を国民に向けるということは由々しきことであるということを私達は申し上げなければならない。それが私の言う憂慮すべきことである」

宇野首相「日本は戦争で中国国民に迷惑をかけた」

しかし、対中配慮は果たして邦人保護のためだけなのだろうか。宇野は土井にこう、とうとうと述べた。

「まず中国と日本との関係、これは中国とアメリカとの関係とはまったく違う。このことを自覚しなければいけません。なぜならば、われわれはまず中国とはかつて戦争関係にあったという過去を持っております。この過去には十分反省をし、戦争を通じて中国国民に迷惑をかけた」

6月12日の予算委員会では、社会党の川崎寛治衆院議員が、所信表明演説で「流血の惨事」に触れなかったことに関し「外交に人権意識は大変大事」と問いただしたところ宇野は、「やはりお隣のことはよほど慎重でなければならんし、今鳴っている音は、ラジオの音かテレビの音か、それを見分けるくらいの慎重さが必要だということが、まず私の念頭にございます」と答えた。

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「だからお前に共感するんだ」あゝ哀しき中間管理職のオジサン的な日産車たち【推し車】 - MOBY

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ひたすら「明日は今日より良くなるはずだ」と信じ、戦後復興期や高度経済成長期をガムシャラに働いて駆け抜けた「株式会社ニッポン」のサラリーマンたち。

あるいは、バブル時代に浮かれて入社したものの、旧世代からはたるんでいると言われ、新世代からは数だけ多いと厄介者扱いされつつ奮闘する、ブラック企業ニッポンのサラリーマンたち。

時代は違っても常に上下からの板挟み、悲哀を感じつつ消えていき、あるいは今日も生きる「中間管理職」、今回は国産車メーカーでもとりわけ浮き沈みが激しい日産から、「中間管理職のオジサン的なクルマ」を紹介します。

ローレル(8代目C35・1997年)

日産最後のパワフルな(よくわからないポジションの)部長級セダン

日産 ローレル(8代目C35) ©art_zzz/stock.adobe.com

1968年発売の初代は、プリンスのスカイラインに相当する新時代の幹部候補生(アッパーミドルクラスサルーン)として入社したものの、諸々の事情で合併したプリンスに出向(プリンス村山工場で生産)させられたローレル。

優等生のスカイラインに比べ、少々やさぐれていたイメージもありましたが、3代目(1977年)あたりから髪を七三分けにしてお硬い部署で出世していくようになりますが、スカイラインが花形の営業課長なら、ローレルはいわばアームカバーをつけた庶務課長です。

それでも時代の変化で総務課長(ハイソカー)扱いされますが、8代目C35では業績が悪化した社内で大した仕事もなく、よくわからない部署の部長にされてしまいます。

そうなるとお決まりのリストラコース、280馬力のRB25DETまで積んだのに売れないのは何事だと罵られ、エリートのスカイラインを尻目に中間管理職で早期退職と相成りました。

サニー(9代目B15・1998年)

原点回帰とBZ-R投入も、係長で定年を迎えた小型セダン

日産 サニー スーパーサルーン(9代目B15後期型)

日産へ入社(初代B10)した1966年は後にマイカー元年と言われ、他社の同期であるカローラやスバル1000と営業先でバチバチと火花を鳴らし、主任に昇格した頃(2代目B110~4代目B310)は営業(レース)成績も抜群、ロケットのようだとも言われます。

その後もスマートな若手管理職(6代目B12・7代目B13)として社内外から注目の的、一時は日本屈指の営業マン(カローラを抜く販売台数日本一)とも呼ばれたのです。

しかし、バブル崩壊で全ては変わり、人事部はヘンテコな新入社員(新型車)ばかり採用し、マーチ君ほど薄給でもなく、エルグランド常務やスカイライン部長ほど敬意も抱かれずに中途半端なサニー係長は影が薄くなっていきます。

最後に一念発起して現場復帰(9代目B15でスポーツ版BZ-R追加)するも、もはや昔の営業スタイルは通用せず、昔の栄光はどこへやら、終わってみれば万年係長で定年を迎えました。

ブルーバードシルフィ(初代G10・2000年)

ブラック企業の中間管理職から、海外でノビノビ活きるセダン

日産 ブルーバードシルフィ(初代G10)

旧世代のエリートだったローレル部長やサニー係長が窓際でヒマそうにしている頃、一足早く定年を迎えるブルーバード課長の縁故入社により、最初から課長待遇で日産入り(初代G10)。

顧客からはブルーバードじゃないからと冷たくされ、仕方なく新規開拓で駆けずり回るも、一度潰れかけて再建途上の日産では十分な給与もなく、さりとて縁故入社組では転職もままなりません。

その後も海外出張ばかりしているうちに(2代目G11、3代目B17シルフィ)、ついにはもう日本へ帰ってこなくてよいと言われてしまいますが(4代目B18シルフィ)、どのみち日本の風土(ボディサイズ)が合わなくなっていました。

トヨタと並ぶ日産栄光の時代を知らない世代ですが、ブラック企業だと思って入社した日産本社(日本)で中間管理職をしなくて良くなったのは幸いですが、いつ本社に呼ばれるかと内心ではビクビクしているかもしれません。

※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。

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Saturday, July 30, 2022

「だから、私は山へ行く」#17 森 美穂子さん | ランドネ - FUNQ

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アウトドアウエアの機能性とファッションアイテムとしての美しさを兼ね備えたアイテムを世に送り出すアウトドアブランド「and wander」。デザイナーの森美穂子さんに聞く、山のこと、ものづくりのこと。

「だから、私は山へ行く」
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思考から開放されて、自然のつながりを感じる
それが、山歩きの楽しさ

思考からの解放

photo by Dai Iizaka

「山に行く理由はたくさんあるけれど、ここ数年感じているのは〝思考〞から開放される心地よさです。都会では一日のはじまりに『今日はなにを着ようかな』、『だれと会うんだっけ』……といろいろなことを考えてしまう。でも、山にはそんな選択肢はありません。身の回りを整えて、右足と左足を順番に出して目的地に向かう。そのシンプルさが好きなんです」

まっすぐに前を見つめて話す森美穂子さん。「アンドワンダー」のデザイナーとして自然と向き合ってきた彼女の言葉には、淡々と山道を歩いていくようなしなやかさがある。

幼い頃は青森や北海道で育ち、山岳部出身の父に連れられて夏はキャンプ、冬はスキーへとでかけていた森さんにとって、自然は子どものころから身近にある存在だった。その後、高校時代を東京で過ごした森さんは、服を作るアトリエを経営していた祖母の影響などもあり、ファッションの世界を志すようになる。

服飾の専門学校を卒業したあと、「I SSEY MIYAKE」でデザイナーとしてのキャリアをスタート。「ハードだけどやりがいがあっておもしろかった」という時代を経て、フリーランスデザイナーとして活動するようになる。森さんが幼少期以来遠ざかっていたアウトドアを楽しむようになったのは、このころのことだ。

キャンプから山へ

▲八甲田の木々のなかを歩く森さん。最近は“山歩き”だけでなく“山遊び”を楽しむことも多いという

「前職の同僚で、アンドワンダーのパートナーの池内くんや仲間たちと、20代半ばのころからキャンプに行くようになったんです。自然のなかで過ごすのは新鮮で心地よく、アウトドアの道具にも興味を持ちました。無駄のない、削ぎ落とされたデザインは機能美の世界で、見た目がおなじようなカップが、アルミ、ステンレス、チタンと異なる素材で展開されていることにも驚きました。デザイナーとしてわずかな差異に価値を見出すマーケットもすごいな、と」

森さんの興味は、やがてキャンプから山へとシフトする。そのきっかけは、あるキャンプ場でのできごとだった。

「いつものキャンプ仲間と福島県の野営場を訪れたとき、少し時間ができたので近くのハイキングコースを歩くことにしたんです。そうしたら景色が一変。『たった15分歩いただけで、こんなに世界が変わるんだ!』と感動したんです」

▲森さんが描いたイラストマップ。「縦走するときは山の地図やイラスを書いて写真には残らない思い出を記録します!」

森さんが山歩きに魅了されたのは、28歳のころ。八ヶ岳、北岳、槍ヶ岳。さまざまな山を歩いたけれど、とくに思い入れが深いのが穂高岳だ。

「美穂子という名前の穂という字は、山好きの父が好きだった穂高岳から取られたもので、小さいころから何度も話を聞いていたんです。父は私がアンドワンダーをスタートする前に他界してしまったのですが、はじめて穂高岳を歩いたときはうれしかったですね。そこにはきっと昔から変わらない景色があって『父さんもこの風景のなかを歩いたのかな』って」

▲「そろそろ海外のトレイルに行きたい!」と話す森さん。写真は北ヨセミテを歩いたときのもの(Photo by Dai Iizaka)

アンドワンダーをきっかけに
山や自然の魅力を知ってくれたら本当にうれしいです

機能的に。情緒的に

2011年に誕生した「アンドワンダー」だが、森美穂子さんと池内啓太さんが当時から大切にするのは「自分たちの肌感覚を信じる」こと。

▲and wander 創業時のメンバーと槍ヶ岳から大キレットを超えて、北穂高岳、奥穂高岳を縦走

「アウトドア業界にはすでにすばらしいブランドがたくさんあって、機能的にはもちろん申し分ない。ファッションが好きな私たちがやるのだから、機能性だけでなく、着ている人がきれいにみえて、気持ちの上がるデザイン性も大事にしたいと思っています。機能的であることと、情緒的であること。両方を満たす着地点を探すのが、むずかしいけれど、おもしろいです」

森さんのお気に入りのアイテムのひとつが「ドライジャージーショートスリーブT」。コンパクトな肩周りとふんわりとしたお腹周りが特徴の速乾性のTシャツだ。

「このアイテムは最初のシーズンにデザインしたのですが、当時は女性用のベースレイヤーは身体のラインに沿ったタイトなものがほとんどでした。身体を優しく包むアンドワンダーらしいシルエットができたときは、『よしっ』と手応えを感じました」

ほかにも、モードな色彩や大胆なカッティング、リフレクターなどのディテールなど、ひと目で「アンドワンダー」とわかる魅力的なアイテムを生み出してきた森さん。創業から12年目を迎え、2022春夏にはキャンプギアも登場。店舗内のギャラリーの運営など「アンドワンダー」が手がける領域は着実に広がってきた。これらの活動を通じて森さんが表現したいものとは?

「やっぱりひとりでも多くの人に自然や山の魅力を知ってほしい。アンドワンダーがそのきっかけになりたい、と思っています。山にいると、自然のつながりに触れられます。喉を潤わす川の水が、どこからくるのかが見えますからね。日常でもそんなつながりを想像できれば、社会が少しよくなると信じているから」

森 美穂子さん

『and wander』デザイナー。2011 年に『and wander』を池内啓太さんと立ち上げる。夏は山登りと川遊び、冬はバックカントリースキーを楽しむ

「だから、私は山へ行く」
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ウクライナの恐怖「だから核廃絶を」 いま何ができる?長崎でシンポ [核といのちを考える] - 朝日新聞デジタル

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 国際平和シンポジウム「核兵器廃絶への道~世界を『終わり』にさせないために~」(長崎市、長崎平和推進協会、朝日新聞社主催)が30日、長崎市の長崎原爆資料館であった。ロシアのウクライナ侵攻が続く中、被爆者の記憶をどうつなぎ、「核なき世界」への歩みを進めるか。2部にわたって議論が交わされた。

 来場、オンライン視聴を合わせて約1320人が参加した。

 第1部では、ウクライナ情勢を踏まえて日本でも米国の核兵器を配備して共同運用する「核共有」の主張が現れるなど、世界で再び高まる核抑止依存について議論が集まった。

 米シンクタンク・軍備管理協会のダリル・キンボール会長がオンラインで基調講演し、「核戦争に陥らない唯一の解決策は核兵器の廃絶だ」と指摘。続く討論では、核兵器は一度使われると全面戦争に発展する可能性があるとして「そのリスクを計算することはできない」と述べた。

 ほかに、和田征子・日本原水爆被害者団体協議会事務局次長、樋川和子・大阪女学院大教授、金淑賢・韓国国家安保戦略研究院責任研究委員、吉田文彦・長崎大核兵器廃絶研究センター長の4人が参加。

 1歳のときに長崎で被爆した…

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【リーマントラベラー東松寛文】知らない自分に気づく だから海外旅行はやめられない:朝日新聞GLOBE+ - GLOBE+

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――2年ぶりの海外旅行から戻られたばかりだとか。

新婚旅行でドバイ、エジプト、バーレーン、モルディブ、タイをめぐる18日間の旅をしてきました。2020年2月にブラジル、リオ・デ・ジャネイロでカーニバルに参加して以来です。コロナ禍の2年間は日本でできる最大限の楽しみを探そうという気持ちで過ごし、それほどのストレスは感じませんでしたが、今回、「非日常」はやっぱり海外にこそあると改めて思いました。

日本はすべてが便利じゃないですか。海外では「言葉が通じない」「通貨のレートがわからない」とあらゆることが不便になり、うまくいくと「できた!」という感覚を得られる。それこそ、僕が旅に求めているものです。

――海外旅行での「非日常」体験は実生活にどういかされていますか。

2つの側面があります。即時性のあるものでいえば、心がリフレッシュされること。知らなかったことに出合い、自分の世界が広がってゆく。

金曜日の夜に出発して、月曜日の朝帰ってきて会社に行く生活は、「疲れませんか」とよく聞かれます。たしかに疲れるけれど、仕事をもっとがんばることができる。家でのんびりすれば体力は回復するけれど、そのまま同じ日常が続いていきます。「非日常」を間に入れ込むことで、気分転換になる。今回の2年ぶりの海外旅行は楽しすぎて、心がなかなか日常に戻れませんでしたが。

リオのカーニバルに参加した東松さん
2020年2月、ブラジル・リオのカーニバル

もうひとつは、旅のなかに「自分と向き合うきっかけ」を加えて、さらに仕事がパワーアップしたことです。

振り返ると、入社してから3年間は「超」がつく激務で、自分の時間はまったくありませんでした。仕事が絶え間なく降ってきて、終わりがない。「なぜこの仕事をやっているのだろう」、「自分が本当にしたい仕事だったっけ」と疑問が出てきました。

忙しすぎると、「仕事でこれをしたい」という想いも薄まっていきます。やがて超激務から、激務になり、少し時間ができて、旅をするようになりました。

帰りの飛行機で、いつも振り返りをしています。通信がない、外と切り離された環境は、自然と内省する時間になります。旅行中に撮った写真を見返すと、「なぜ旅先でこれを撮ったのだろう」という写真が出てきます。知らず知らずのうちに自分が心動かされたものに気づく。考えるうち、自分の好きなこと、得意なこと、やりたいことがはっきりしてきました。

新婚旅行中、エジプトのルクソールで気球に乗ったのですが、上空からの景色を心ゆくまで楽しみました。なぜこれほどテンションが上がるのか、考えてみたのです。

ああ、自分は街を空から俯瞰して見るのが好きなんだ。そういえば仕事でも、組織全体を俯瞰して仕組みを作ったり、役割やルールを考えたりすることにテンションが上がる、と気付きました。こんどオーストラリアに行くのですが、そこでもグレートバリアリーフを上から見てみようと思っています。

アメリカ・マイアミ「スーツを干しながら水着でビーチ」
2016年3月、アメリカ・マイアミ

――忙しい仕事の合間を縫って弾丸旅を重ねてきました。

最初の旅はどうしてもNBA(米プロバスケットボール)の試合が観たくて、週末に有給休暇を一日足した3泊5日のロサンゼルス往復でした。それから3連休で韓国やシンガポールに行きました。

最初はただ、自分が「旅をすることが好き」なのだと思っていました。次第に、自分のテンションが上がる体験には共通点があるとわかったのです。

スーパーや市場に行って現地の人と同じように買い物をする、服を売っている店員さんに、若者が集うクラブはどこか聞いて行ってみる、ガイドブックで紹介されていないレストランを現地の人に聞いて探す、といったことです。逆に、よく知られた観光地に行っても、そこまで心が動きませんでした。

なぜなら、現地の人の「生き方」に触れることが刺激になるからです。それまでサラリーマンであることが自分のすべてでしたが、海外旅行で意識が変わりました。

――例えばどんな場面で?

旅にのめりこむきっかけとなったのは、2015年に旅したキューバでした。

2013年に放送されたテレビ番組で、写真家の紀里谷和明さんがキューバを訪ね、アポなしで民家に入っていく様子が強く印象に残っていました。

僕もキューバに行って市街地を歩き、May I come in? (入ってもいい?)と聞いて、民家を訪ねました。知らないおばさんの家で家庭料理をごちそうになりました。大きな音が聞こえる家をのぞいたら、踊っていたお姉さんたちに招き入れられダンスの練習をさせられたり、水たまりに足をとられ、靴が泥だらけになって困っていたら、近所のおばさんが靴を洗ってくれたり。

キューバの人たちは社会主義で貧しいというイメージでしたが、心は豊か。いろいろな生き方をしている人がいる、いろんな生き方があっていいということに気づき、そしてそれを多くの人に伝えたいと思うようになったのが、「リーマントラベラー」として旅を続け発信するきっかけです。

キューバ・ハバナにて
2015年5月、キューバ・ハバナ

「今の会社がすべて」と思っている、自分と同じようなサラリーマンに、外の世界や、さまざまな生き方があることを伝えたい。そうして、「サラリーマンしかない」のではなく、「サラリーマンを選ぶ」と決めたことで、仕事の満足度が上がりました。同じように考える人を増やしたいですね。

2019年、インドのアムリトサルというパキスタンとの国境に近い街に行ったときにも、想像と違った世界を見て驚いた覚えがあります。

「ワガボーダー」という国境では毎日、国境を閉鎖するセレモニーがあり、インドとパキスタンの軍隊がそれぞれ旗を持って行進をする様子をスタンドから大勢の人たちが見学します。

両国は外交上、仲が悪いので、危険なムードかと思っていました。しかし現地では、音楽フェスティバルのような盛り上がり。ダンス音楽に合わせて、女性と子どもたちが踊る場面もありました。両国の軍隊は同じ動きをして行進を終え、最後に握手をしていました。

国と国との関係が悪くても、人と人の関係となると話が変わってくる。これは行ってみないとわからない。こうした経験があるからこそ、海外旅行はやめられません。

インド・パキスタン国境
2019年4月、インド・パキスタンの国境「ワガボーダー」

――非日常を体験するために、事前に旅のリサーチを念入りにしますか。それとも、ぶっつけ本番が多いですか。

ほぼぶっつけ本番です。行く前に何をするか決めてしまうと、現地でタスクをこなす感覚になってしまいます。予定どおりできないと気分が下がる。情報はガイドブックで網羅されているし、SNSでも風景の写真を見ることができますが、期待が上がりすぎると、満足度が弱まってしまいます。

予定が崩れてもいいという気持ちで、軽く下調べをして、行きたい場所には地図にピンを立てることが多いです。絶対行きたい「一軍」の場所と、行けたらいいなという「二軍」の候補地を挙げておく。時間にゆとりを持たせておいて、現地でお祭りがあれば、行ってみたり、「一軍」のついでに「二軍」の場所を訪ねたりします。

東松寛文さん

――コロナの経験を踏まえた、これからの旅についてどう考えますか。

移動手段に変化が起きていますし、感染対策も国によって違います。

今は「行きたい国」より「行ける国」を考えるといいと思います。コロナ対策をしっかりして入国制限の緩和をアピールしていたり、観光の発信を積極的にしていたりする国は、受け入れの態勢が整っていると感じます。自然とふれあう機会が多い場所も、感染対策をしながらの旅がしやすいのではと考えています。

海外へ行くには時間もお金もかかります。「これがしたい」、「ここに行きたい」という目標が浮かばないかもしれません。それでも、海外に行くと、日本で味わうことができない「非日常」を体験することで、大きな満足感を得られます。海外旅行の不安をいかに減らして、一歩を踏み出す勇気になれるか。その力になりたいと考えています。

(文・斉藤真紀子、インタビュー写真・関根和弘、旅の写真は東松さん提供)

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