■人生最高の日、のはずが
2016年4月12日朝、チャールズ・ジョンソンさん(当時35歳)は、カリフォルニア州ロサンゼルスの自宅で、長男チャールズくん(当時1歳)の世話をしながら、午後に予定されていた妻のキラさん(当時39歳)の帝王切開に付き添うための準備をしていた。家ではキラさんが大好きな「ビヨンセ」の曲が鳴り響いていた。
シングルマザーの母親に育てられたせいか父親の存在に憧れ、物心がついた頃から「子供にスポーツを教えるような父親になりたい」と願ったジョンソンさんは、「今日が人生で一番幸せな日になる」と胸を躍らせていた。いつも夫婦で「年子の男の子が欲しい」と話していたチャールズさんとキラさんの夢が叶おうとしていたこの日、二人は喜びと興奮に包まれていた。
「妻と生まれてくる息子のために最高の病院を選びたかった」というジョンソンさんは、色々調べた結果、「シダーズ・サイナイ医療センター」を選んだ。ロサンゼルスのビバリーヒルズ地区にあるこの病院は、米紙「USニュース」が毎年発表する「全米ベスト・ホスピタル・ランキング」で(2021年から2022年度)6位に入る有名な病院だ。
午後零時半頃、自宅から車でわずか5分の病院に到着すると、全てが早いテンポでスムーズに進められていった。
午後2時33分、次男のラングストンくんが無事誕生した。キラさんとジョンソンさんにはこの時、嬉しさ以外に何もなかった。ジョンソンさんは、キラさんが生まれたばかりのラングストンくんを抱っこして、笑顔に満ち溢れる様子を懸命に写真やビデオに収めた。帝王切開は通常45分ほどかかるといわれるが、キラさんの手術は17分で終了した。信頼できる病院を選んだことや2度目の出産と帝王切開ということもあり、懸念や違和感はなかった。
キラさんが別室へ移り、体を休めている時のことだった。ジョンソンさんが、キラさんのカテーテル(手術の際に尿道に挿入される管)に血液が少し混じっているのに気づいた。看護師を呼んでそのことを伝えると、血圧測定や超音波検査が行われ、さらに緊急でCTスキャンが必要ということになり、検査をすることになった。この時、キラさんは肌が敏感になり「何かに触れると今までに感じたことのないような変な感覚がする」と言っていた。時刻は午後5時になろうとしていた。
いったん医師や看護婦がその場から去り、30分ほどが過ぎた。「CTスキャンはいつ行われるのだろう?」と思ったが、ジョンソンさんは心の中でつぶやいた。「妻はいたって健康な体でこの出産に臨んだ。生まれた息子も元気だ。何より私たちは『シダーズ・サイナイ医療センター』にいる」。
午後6時頃、キラさんが腹痛を訴えた。「CTスキャンはまだですか?」とジョンソンさんは少し焦り気味に看護婦に尋ねた。「もうすぐ」と言われたが、何の検査も処置もないまま時間だけが過ぎていった。診療記録には午後6時45分の時点で「外科的救急疾患」の文字が記載されているが、救急の扱いをしてくれる人は誰もいなかった。
午後7時を過ぎると、「寒い」と言うキラさんの体はガクガクと震えていた。ジョンソンさんは叫んだ。「一体どうなってるんですか?」。看護婦は繰り返し「CTスキャンはもうすぐですから」と答えたが、緊急だったはずのCTスキャンは、この日は行われなかった。
■取り乱したら、「脅威」に変わる
「妻の体調が悪化している。検査や手術が必要だと言われたが誰も来てくれない。どうか助けて下さい!」。午後9時頃、ジョンソンさんは一人の看護師を捕まえ必死に訴えた。看護師はジョンソンさんの目を真っ正面から見つめ答えた。「あなたの奥さんは今私たちの優先ではありません」。ジョンソンさんに、信じられないという思い、怒り、失望が一気に押し寄せた。
「とにかく妻を守らなければ。医師や看護師たちが彼女の声に耳を傾けてくれるよう、必要なCTスキャンや手術を早くしてくれるよう、何とかしなければ」。ジョンソンさんは何度も自分に言い聞かせた。苦しみながらも、キラさんはそんなジョンソンさんの憤りを察した。「ベイビー、お願いだから冷静でいて。お願いだから」。キラさんがこのように言う理由は、ジョンソンさんには痛いほどわかっていた。「少しでも声をあげたり取り乱したりすれば、私はたちまち『妻を助けようとする夫』から『脅威』に変わってしまう。それがこの国で黒人でいるということだ。キラは自分が大変な時に、私を守ろうとしてくれた」
当時を振り返りながら、ジョンソンさんは続けた。「耳を傾けてもらえないということは、まるで自分だけ誰からも見えていないような感覚だ。絶望的になると同時に怒りや悔しさを感じる」
午後11時42分、二人の医師がやっとキラさんの元にやってきた。超音波検査の結果、「拡大する血腫」が確認され、出血の原因を調べるための手術が必要だという結論が出された。だが、診療記録によれば担当医は、「現段階では手術なしで様子を見たい」という提案をした。容態がさらに速いスピードで悪化し、医療チームがキラさんを手術室に運ぶ決断をした時、日付はすでに変わっていた。ジョンソンさんが最初に助けを求めた時から7時間半以上が経過していた。
中東系男性の担当医は言った。「大したことはないから、15分もすれば奥さんは手術から戻りますよ」。ジョンソンさんはこの言葉を、わらにもすがる思いで信じた。一方キラさんは、自分の身に何が起こっているのかわからず動揺を隠せなかった。「怖い」……。冒険好きで何事にも恐れず、チャレンジ精神に溢れるキラさんの口からジョンソンさんが初めて聞いた言葉だった。ジョンソンさんはそんなキラさんを必死に安心させようと努めた。「大丈夫だから心配しないで。全てうまくいくから」。これが、二人の最後の会話になろうとは、この時のジョンソンさんには全く想像もつかなかった。
手術で切り開かれたキラさんの腹部からは3リットルの出血が確認された。それから間もなく、出血多量によりキラさんは息を引き取った。2016年4月13日午前2時22分。ラングストンくんが生まれてからわずか12時間後のことだった。
「ノー!」。キラさんの弟の叫ぶ声が廊下に大きく響いた。キラさんの母親は床に崩れ落ち、大声で泣き叫んでいる。「まさに私の世界が粉々になっていく様がそこにあった」。この時に聞いた叫び声は、今でもジョンソンさんの耳から離れない。事実を受け入れることができず、ただただ茫然と立ち尽くすジョンソンさんに突然怒りがこみ上げ、思わず壁をパンチした。痛みは感じなかった。「家族は最高に幸せな日を祝うために集まっていた。こんなことになるなんて、誰一人想像していなかった」
「15分もすれば戻る」と言った担当医が手術後家族の前に姿を表すことはなかった。数人の研修医が「手術が始まると間もなく心拍が停止し、蘇生に努めたが命を救うことができなかった」と説明しただけだった。まだショック状態だったジョンソンさんに、すぐさま「なぜ?」の嵐が押し寄せた。「なぜもっと早く対処してくれなかったのか。何時間か前には元気だったはずなのに」。怒りと混乱で頭がおかしくなりそうだった。
■「同じ体験をした」寄せられたメッセージ
「あの日自分が他にできたことは何だったのか?」、「違ったアプローチをすべきだったか?」、「もっと大声で医者に叫べばよかったのか?」。ジョンソンさんは今でも毎日のように自分に問いかける。でも、その度に「もしそんなことをすれば、状況を悪化させていたに違いない」とも思う。大声で叫んでいたら、ジョンソンさんは病院で「怒る黒人」とみなされ、拘束されていたかもしれない。
ジョンソンさんには繰り返し見る悪夢がある。ラングストンくんが生まれた2016年4月12日、キラさんが自分の目の前で苦しんでいる。奥には医者や看護婦の姿が見える。でもなぜか自分だけが透明人間のように周囲から見えていない。次の瞬間、キラさんの姿が消え、生まれたてのラングストンくんだけが病室に置かれた保育器の中で穏やかに眠っている。病室の窓からはハリウッドの丘が見える。(夢の中で)ハッとして目が覚めると「全て夢だった」と安心する。でもすぐにそれが現実だと気づき、打ちのめされる。「この夢を見るたびにあの日の経験が全てよみがえる」とジョンソンさんは語る。
キラさんの死とそこに至るまでの病院の対応にどうしても納得がいかなかったジョンソンさんは、ロサンゼルス郡の医療検視官省にキラさんの司法解剖を頼んだ。司法解剖の報告書には出血の原因の明記はなく、「死因は急性腹腔内出血による多量出血のショックで、死の容態は『事故死』」と書かれていた。
葬儀を終えた翌週、キラさんの診療記録に目を通した産婦人科女医の友人が、話があるといいジョンソンさん宅を訪れた。友人は、「キラに起きたことは医療現場で起きた悲劇ではなく、医療の『大惨事』と言わざるをえない」と話した。「命を救うための処置を病院が組織的に怠っていたことが診療記録から伺える。全てが過った方向へ向かった」と続けた。
友人の言葉にジョンソンさんは実感した。「キラは様々な意味で『義務を怠った人たちの失敗』により命を失った。(彼女に耳を傾けなかった)スタッフ、手術後の出血を止めるための処置。でも1番大きな過ちは『思いやりの欠如』だ」。ただ、ジョンソンさんはキラさんに起きたことは稀で、「例外」のケースだと思っていた。
ところがそれを覆す出来事が起きた。ジョンソンさんの元に、ソーシャルメディアを通し、たくさんのメッセージが寄せられた。その多くが医療現場で「キラさんと同じような体験をした」、「差別的な対応をされた」などという黒人女性たちの声だった。「出産時に妊婦が亡くなるのは、どこかの発展途上国で起きることで、米国で起きているなんて考えもしなかった」と話すジョンソンさんは、他の黒人女性の体験談を読み衝撃を受けた。
現状を知るべくリサーチを始めると、米国では黒人の妊産婦死亡率が白人に比べ3倍も高いということを知る。「オー・マイ・ガッド!こんなクレイジーなことがあっていいものか!一方で、このことが全く話題になっていない」。ジョンソンさんは「自分が行動を起こさなければ」と思い立った。
米疾病対策センター(CDC)は、黒人女性が白人女性に比べ妊産婦死亡率が3倍高い背景として、「ヘルスケアのクオリティの差、慢性疾患、構造的な差別、潜在的な偏見」を指摘し、人種による格差を認識することで黒人妊産婦の死亡率低下に努める必要性を訴えている。
■「キラのために、母親たちのために」
こうしてジョンソンさんは「フォア・キラ・フォア・マムズ(キラのために、母親たちのために)」という非営利団体を立ち上げ、「声を聞き入れてもらえない人たちの声となり、妊産婦の危機に歯止めをかけよう」というスローガンのもと、母親たちのサポートグループやコミュニティベースの教育、被害者家族への支援などを中心に活動を始めた。
これまで実業家としてビジネスに専念してきたため、「自分が活動家になるなんて想像したこともなかった」というジョンソンさんは、2018年9月27日、「プリベンティング・マターナル・デス・アクト(妊産婦の死亡を防ぐ法令)」が議論される米議会下院の公聴会で証言した。「プリベンティング・マターナル・デス・アクト」は、各州に妊産婦死亡を調査・分析しそれに基づき政策改正へ繋げることを促す法律で、連邦政府から年間1200万ドル(約16億2千万円)が州に交付されるものだ。
ジョンソンさんは下院議員たちの前で証言した。「なぜ母親が命を失い続けるのか、この国が知る権利がある。子供を産もうとする母親や家族は何が妊産婦死亡の原因なのか、何が『ニアミス』を生じさせるのかを知るべきだ。私はこの世で一番素晴らしい贈り物である子供を産んで親になりたいと願う人、それを助ける医療従事者が何を理解すべきか、どのような助けをすべきか、いつ患者に耳を傾けるべきかを学ぶ助けになりたい」。
この法案は上院でも可決され、2018年12月21日、トランプ大統領が署名した。「画期的出来事というべき達成だった。連邦政府が初めて妊産婦死亡を『危機』と認識し、問題を防ぐために資金投資することになったのだから」。ジョンソンさんはいう。「特に分極が進むこの時代に、母親と赤ちゃんを守るために超党派の法案を可決させたことを誇りに思う」。
■「私の妻が白人であったなら……」
今年5月4日、ジョンソンさんは「シダーズ・サイナイ医療センター」の前にいた。その前日、ジョンソンさんは、人種差別に基づきキラさんに必要な処置が行われなかったとし、「シダーズ・サイナイ医療センター」を相手取り市民権訴訟を起こした。この訴訟についての記者会見が病院前で開かれていた。
「適切な処置が早急に行われなかったためにキラさんは亡くなった」と主張するジョンソンさんは、2017年3月に同病院を相手に不法死亡訴訟を起こしていた。なかなか思うように訴訟が進まず、ジョンソンさんは異なったアプローチを市民権弁護士のニコラス・ロウリーさんに相談した。ロウリー弁護士が調査を始めたところ、「シダーズ・サイナイ医療センター」の医療従事者たちから内部告発が続出した。
これを受け、2022年1月、2017年に申請した不法死亡訴訟に「人種差別」を追加しようと試みた。だが、人種差別という新たな申し立てをすることは原告の訴因に完全に新たな理論を足すことになるということや、すでに訴訟申請から5年も経っており、2022年5月に始まる裁判を遅らせてしまうなどという理由で「人種差別」の申し立てを追加することが拒否された。ジョンソンさんは「キラさんが病院で受けた対処は人種差別に基づいている」という新たな理論と内部告発者の証言に基づき、2つ目の訴訟を起こすことにした。
内部告発者の一人、手術をサポートする技術者として約30年の経歴を持つアンジェリーク・ワシントンさんは裁判の宣誓供述で、「シダーズ・サイナイ医療センター」で人種差別とみられる対応が頻繁にあり、キラさんへの対応も差別や偏見に基づいていると主張した。
「私たちはキラさんが手術室に運ばれるのを随分長い間待っていました。私自身、黒人女性として言わせてください。キラさんに自分自身、私の娘や妹たちを重ねました。私たちの多くが執刀医に命を守るために闘って欲しいと思うはずです。でもこの状況を見ると、『まさか彼女(キラさん)が黒人だから闘おうとしないのでは?そうであって欲しくない』と思わざるをえませんでした」。ワシントンさんは続けた。「私は現場の執刀医、特に判断を遅らせた医者たちは、彼女が有色人種だったためにそうしたのだと思います」。
その理由として、「麻酔で眠った患者に対する差別的なコメントも、本がかけるほどに聞いたことがあります。黒人の患者がオペ室に入って来るたびに、私は『全てがうまくいきますように』と密かに祈りを捧げます。オペ室には差別が溢れているからです。横たわる患者は『シダーズ・サイナイ』、私、医療チームが公平で効果的でハイクオリティの医療を提供すると信じています。その傍で医者たちが黒人について差別発言をしているのです」と続けた。「『シダーズ・サイナイ』であなたが人種差別を目撃した頻度はどれくらいですか?」という弁護士の質問にワシントンさんは答えた。「小さいものから大きいものまで、頻繁に行われていました」。ロウリー弁護士は、このような内部告発に加え、患者たちからも「私たちは人種差別の被害者です」という連絡を多く受けたと話す。
一方で、不法死亡訴訟に「人種差別」を追加しようと試みた際の裁判所の記録によれば、「内部告発者の宣誓供述は、故人(キラさん)に対する意図的な差別であるという主張を立証していない」という議論も行われている。
「シダーズ・サイナイ医療センター」はこの訴訟を受け、声明を発表した。「シダーズ・サイナイは多様性、互いを受け入れること、クオリティのある医療ケアを全ての人に供給するという原理に基づき設立された。私たちの文化や価値観の事実誤認は否定する。我々の社会に格差は存在するものの、私たちはヘルスケアにおける無意識な偏見を取り除き、平等を促進する努力をしている。妊産婦の人種的格差という重要な問題に注目したジョンソン氏を称賛する」。
記者会見でジョンソンさんはこう語った。「私は確信しています。もしキラが白人だったら、彼女は今日ここにいたことでしょう。日曜の母の日も二人の息子と祝っていたことでしょう。『シダーズ・サイナイ』でキラに起きたことは、医療ケアに潜在する人種差別がその姿を表した恐ろしい実例です。悲しいことに、キラに起きたことは多くの黒人女性に起きています」。
「2016年4月12日、人生最高の日になるという期待を胸にシダーズ・サイナイ病院に私たちが足を運んだ時、キラ・ジョンソンが直面した最大のリスクは『人種差別』でした」。キラさんがこの世を去って6年が経つが、ジョンソンさんの闘いは始まったばかりだ。
からの記事と詳細 ( ビバリーヒルズの有名病院、出産直後に亡くなった女性 黒人だから? 内部告発が続出:朝日新聞GLOBE+ - GLOBE+ )
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