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Tuesday, March 10, 2020

「必死に高台まで逃げました」ロッテ・佐々木朗希が語った3.11の記憶(文春オンライン) - Yahoo!ニュース

 今年も3月11日が訪れた。ドラフト1位で千葉ロッテマリーンズに入団した佐々木朗希選手はあの日、その瞬間は岩手県陸前高田の小学校にいた。3年生の時だった。

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「校庭まで津波が押し寄せてきました。みんなで必死に高台まで逃げたのを覚えています。正直、なにが起きたのか分からなかったけど、その事は今でもはっきりと覚えている」

「普通の毎日がいかに幸せなことだったのかを知りました」

 ZOZOマリンスタジアムでのある日の練習後。ロッカールームで当時の事を佐々木朗希は振り返ってくれた。震災で父と祖父母を失い、日常を失った。避難所で水もなければ、お風呂にも入れない日々を過ごした。幼き心が揺れ動いた。その時、初めて普通の日々のありがたさを知った。

「普通の事が普通でないという事を知りました。ご飯を食べること、お風呂に入る事、野球をする事。当たり前に思えた事のすべてが当たり前でない事をその時、感じました。普通の毎日がいかに幸せなことだったのかを知りました」

 生まれ育った陸前高田の街は一変した。自宅。自転車で1周をした街。山の中に作った秘密基地。思い出のすべてが流され消えた。老人ホームに作られた避難所での日々を余儀なくされた。4年生になると母方の家族のいる岩手県大船渡市への引っ越しをすることになった。生まれ育った場所から離れるのは辛い事だった。

「転校はものすごく辛かったのを覚えています」と佐々木朗希。悲しき日々で心を支えてくれたのが野球だった。避難所でもボールを見つけてキャッチボールをした。グラブもなかったので、人から借りた。野球が出来ることの幸せを感じながら、没頭した。

「プロで活躍する事で東北の人に明るい話題を提供したい」

 月日は流れる。まだ東北は完全に復興したとはいえない。いまだ、仮設住宅に住む人はたくさんいる。佐々木朗希は野球で徐々に頭角を現した。大船渡高校でも野球部に入り、その存在は高校野球界の誰もが知るものとなった。人は彼を「令和の怪物」と呼んだ。ドラフトでは4球団が競合。千葉ロッテマリーンズ入りが決まった。プロ入り後、震災の事を聞かれると佐々木朗希は言葉を選びながら答える。

「色々な人に支えてもらった。日本全国の人が支えてくれた。そして世界の人が支えてくれた。感謝の気持ちです。これからはプロで活躍する事で東北の人に明るい話題を提供したいと思います」

 2020年3月11日。佐々木朗希はピンストライプのユニホームに身を包み、千葉ロッテマリーンズの本拠地、ZOZOマリンスタジアムにいる。令和の怪物としてメディアに一挙手一投足を追われる立場。しかし、それでもすべてを受け止める。自分が活躍し、メディアに取り上げられることで東北に明るい話題を提供したい。メッセージを発信したい。そう思っている。夢は大きい。震災を経験したからこそ知った日常のありがたみ。人への感謝の想い。それをメッセージに変えて社会に発信するためにも大きな夢を実現できる存在になりたいと願う。

梶原紀章(千葉ロッテマリーンズ広報)

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梶原 紀章

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