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Saturday, July 18, 2020

銃殺、密告、そして秘密警察…だから私は、東ドイツから亡命した【ドイツ再統一30年目の証言】 - Business Insider Japan

亡命当時のギュンター・ヴェッツェル氏の一家。妻ペトラさん(当時24歳)、二人の子ども(当時5歳と2歳)も一緒に西ドイツへと逃れた。

亡命当時のギュンター・ヴェッツェル氏の一家。妻ペトラさん(当時24歳)、二人の子ども(当時5歳と2歳)も一緒に西ドイツへと逃れた。

ギュンター・ヴェッツェル氏提供

2020年は現代史における大事件の一つ、「東西ドイツの再統一」から30年の節目の年です。

Business Insider Japanでは、この激動の時代を生きたギュンター・ヴェッツェル氏(65)にインタビューすることができました。

ヴェッツェル氏は20代のころ、「ある方法」で東ドイツから西ドイツへの命懸けの亡命に成功。東西ドイツ、両方での暮らしを知る貴重な生き証人です。このほど、ヴェッツェル氏らの体験を描いた映画が日本で公開されることになりました。

その脱出劇は「東ドイツからの最も華々しい亡命」と呼ばれた。

ベルリンの象徴「ブランデンブルク門」とベルリンの壁。東西ベルリンを隔てたこの壁は、2つのイデオロギーを隔てる障壁となった。

ベルリンの象徴「ブランデンブルク門」とベルリンの壁。東西ベルリンを隔てたこの壁は、2つのイデオロギーを隔てる障壁となった。

John Waterman/Fox Photos/Getty Images

「たった30年前まで、ドイツは西と東で別々の国だった」。そう言われたところで、ピンとこない人もいるかもしれません。

まずは、簡単に時代背景をおさらいしておきましょう。

第二次世界大戦後、世界はアメリカを中心とする「西側諸国」とソ連を中心とする「東側諸国」が対立する時代、いわゆる「東西冷戦」の時代に突入しました。

ヒトラー亡き後の敗戦国ドイツは、西側陣営のドイツ連邦共和国(西ドイツ)と東側陣営のドイツ民主共和国(東ドイツ)に分断され、冷戦の最前線となります。

戦後、ドイツは東西に分裂。ベルリンも米英仏が管理した西ベルリンとソ連管理下の東ベルリンに分断された。そこにはベルリンの壁が構築され、東西冷戦の象徴となった。

戦後、ドイツは東西に分裂。ベルリンも米英仏が管理した西ベルリンとソ連管理下の東ベルリンに分断された。そこにはベルリンの壁が構築され、東西冷戦の象徴となった。

『バルーン 奇蹟の脱出飛行』(TOHOシネマズ シャンテほか全国公開中)

西側は資本主義による市場経済、東側は社会主義による計画経済——。異なるイデオロギーの対立は東と西の経済格差を生み出しました。1949年の東西ドイツ成立後から約12年の間に、およそ270万人もの東ドイツ市民が、自由で豊かな西側へと移住したのです。

これをみた東ドイツは1961年、経済崩壊と威信の失墜を食い止めるべく「ベルリンの壁」を構築。西側に亡命しようと無断で国境を越えれば、その場で国境警備隊に射殺される時代が訪れます。

1961年8月、東ドイツの人民警察機動隊員だったコンラート・シューマンが「ベルリンの壁」を超えて西側へ脱出。「ベルリンの壁」構築後、初の亡命者となった。鉄条網を飛び越える姿を捉えた写真は「自由への跳躍」と題され、東西冷戦を象徴する写真として知られる。

1961年8月、東ドイツの人民警察機動隊員だったコンラート・シューマンが「ベルリンの壁」を超えて西側へ脱出。「ベルリンの壁」構築後、初の亡命者となった。鉄条網を飛び越える姿を捉えた写真は「自由への跳躍」と題され、東西冷戦を象徴する写真として知られる。

REUTERS/CHRISTIAN CHARISIUS

それでも、自由を求める東側の人々は後を絶ちませんでした。当局の監視の目をかいくぐり、驚くべき方法で西ドイツに亡命した人々もいます。

東ドイツ南部のペスネックに住んでいたヴェッツェル氏らは、西ドイツ・オーバーフランケン地方の街ナイラまで気球で飛んだ。

東ドイツ南部のペスネックに住んでいたヴェッツェル氏らは、西ドイツ・オーバーフランケン地方の街ナイラまで気球で飛んだ。

ギュンター・ヴェッツェル氏提供

その一人がヴェッツェル氏。1979年に自ら設計、製作した熱気球で東ドイツから脱出しました。

ヴェッツェル氏は、なぜ熱気球という突飛な方法を選んだのでしょうか。再統一から30年を迎えるいま、旧東ドイツからの亡命者として何を思うのでしょうか(※インタビューは7月2日にzoomで実施した)。

密告、秘密警察……個人の意見が自由に言えない国だった。

ギュンター・ヴェッツェル氏(65)は20代のころ、東ドイツから西ドイツへの命懸けの亡命に成功した。

ギュンター・ヴェッツェル氏(65)は20代のころ、東ドイツから西ドイツへの命懸けの亡命に成功した。

Business Insider Japan(zoom画面より)

——亡命した1979年は、イラン革命やソ連のアフガン侵攻など東西冷戦における重要な事件が起こった年でした。当時、どのような暮らしぶりでしたか。

私は当時24歳で救急車の運転手でした。一緒に逃げたシュトレルツェク家のペーター(当時37)は電気技師。言ってみれば本当に「ごく普通の生活」でしたね。

ペーターも私もそれぞれに家庭があり、仕事がありました。そういう意味では西側の人たちと同じような生活をしていました。ただ、社会的な条件は全く違いましたね。

ギュンター・ヴェッツェル氏とその家族。

ギュンター・ヴェッツェル氏とその家族。

ギュンター・ヴェッツェル氏提供

——「社会的な条件」ですか。当時の東ドイツはホーネッカー政権下でした。「脱出をするしかない」と思った瞬間があったのでしょうか。

ずっと東ドイツから脱出したいという思いを抱いていたので、「特定の瞬間」というのはなかったですね。ただ、好きなことを学べる自由な西側に行きたいという思いが長年ありました。

ホーネッカー政権下、西側の文化が少しずつ入ってきたと思われがちですが、実際に東ドイツにいた身としては逆でしたね。

もちろん、50年代から続いていたウルブリヒト体制下に比べればマシでしたが、ホーネッカーになって状況が好転したわけでは決してありません。

ホーネッカーは1971年から18年間にわたりSEDの第一書記を務めた。市民生活の向上を目指すも経済を破綻させた。東欧革命の流れに逆らい、治安対策など締め付けを強化したが、これが市民の抗議をまねいた。89年10月に失脚し、その直後に「ベルリンの壁」が崩壊した。

ホーネッカーは1971年から18年間にわたりSEDの第一書記を務めた。市民生活の向上を目指すも経済を破綻させた。東欧革命の流れに逆らい、治安対策など締め付けを強化したが、これが市民の抗議をまねいた。1989年10月に失脚し、その直後に「ベルリンの壁」が崩壊した。

Photo by Sean Gallup/Getty Images

とにかく「密告」がどんどん増えていました。シュタージ(東ドイツ国家保安省の工作員、秘密警察のこと)の監視の目も厳しくなっていました。

政治や経済についての個人の意見が自由に言えず、国を自由に出ることもできない。マイナス面がどんどん助長されていった気がします。

市民生活にはプライベートの生活とパブリックな生活があると思いますが、プライベートの生活レベルは非常に良く、快適と言われれば確かに快適でした。

ただ、パブリックの部分では厳然たる政治の圧力がありました。(自由に政治的な)表現ができず、生きる上での社会的な条件、生きる環境は厳しくなっていました。

きっかけは、親戚が持ってきた「雑誌」だった。

2家族を乗せた気球は1245平方メートルの布地が用いられた。取り込める空気は4200立方メートルと巨大なものだった。1979年当時、ヨーロッパ最大のものでギネスブックにも記録された。

2家族を乗せた気球は1245平方メートルの布地が用いられた。取り込める空気は4200立方メートルと巨大なものだった。1979年当時、ヨーロッパ最大のものでギネスブックにも記録された。

ギュンター・ヴェッツェル氏提供

——東ドイツからの亡命方法も色々ありました。車の中に身を隠して検問所を通り抜けたり、壁の下にトンネルを掘ったり…。その中で「気球」を選んだのは驚きです。

長いこと脱出の方法を検討していたのですが、結局のところ、どの方法も危険でした。妻やシュトレルツェク家の家族も一緒なので無理はできなかった。

ただ、そんな中で転機が訪れます。1978年の3月のことでした。西側に住んでいる親戚が、とある雑誌を持ってきたんです。その雑誌の中にはアメリカ・ニューメキシコ州のアルバカーキで開かれている熱気球のイベントの写真が載っていたんです。

カラフルな熱気球が、なんとも軽やかに飛行しているではないかと。これを見た時、思いついたんですね。「これなら困難なく西に行けるんじゃないか?」って。

気球に空気を送り込むために用いたエンジン。プロペラが付いている。

気球に空気を送り込むために用いたエンジン。プロペラが付いている。

ギュンター・ヴェッツェルさん提供

布地と空気を送り込むバーナーとガスさえあれば飛べる。安全だし、亡命には良いかも知れない。これをペーターに話したら彼もすぐに賛成してくれました。

熱気球を3回作ったのですが、1回目は全然ダメ。2回目は失敗して、気球が当局に見つかってしまいました。それでも、回を経るごとに改善できたので手応えはありました。

ドイツの老舗ミシンメーカー「GRITZNER」の足踏みミシンで気球を縫い合わせた。皮革製の糸を用いたため、ミシンには負担がかかったという。

ドイツの老舗ミシンメーカー「GRITZNER」の足踏みミシンで気球を縫い合わせた。皮革製の糸を用いたため、ミシンには負担がかかったという。

ギュンター・ヴェッツェル氏提供

——大人4人と子供4人、2つの家族を持ち上げる気球です。それほど大きな気球を東ドイツという国で作るには神経を使ったのでは…。

3回目に作った熱気球に使った布地は、いろいろな都市でちょっとずつ調達しました。失敗した気球が見つかり、シュタージが我々のことを探していたので。

もし、大量に一つのお店で布を買ってしまえば、すぐに怪しまれてしまいますからね。

気球の製作中、常に監視の目があるとは感じませんでした。ただ、とにかく目立たないようにしようと気をつけていました。そうしなければ絶対に成功できないと思っていました。

私もペーターも自分の仕事を持っていましたし、ペーターは逃亡の用意をしつつSAD(ドイツ社会主義統一党、東ドイツで一党独裁体制を敷いた)の活動にも参加していました。こんな大それた計画をしていたとは、誰にもわからなかったでしょう。

私は自宅で気球の準備をしていましたが、密告を避けるために「家の改修工事でもやっているのかな?」「家で仕事しているのかな?」と思われるよう、カモフラージュをしていました。

ギュンターさんらは、脱出の試みに一度失敗した。シュタージは墜落現場に残された手がかりをもとに「重大な犯罪者」を捜索し始めた。

ギュンターさんらは、脱出の試みに一度失敗した。シュタージは墜落現場に残された手がかりをもとに「重大な犯罪者」を捜索し始めた。

ギュンター・ヴェッツェルさんのサイトより

——亡命前、ご両親にお別れは伝えましたか。

脱出計画は父(養父)にも母にも、誰にも一切話していません。親戚にもですね。迷惑をかけたくなかったから。

実際、私たちが逃亡した後、母はシュタージから聴取を受けています。母自身は何も知らなかったので、問題なく釈放されています。父に至っては、そういった聴取すらありませんでした。

「私たちを探している……暗闇に見えた3本のサーチライト」

東西ドイツの国境は厳しい監視体制が取られていた。

東西ドイツの国境は厳しい監視体制が取られていた。

Cleland Rimmer/Evening Standard/Getty Images

——高度およそ2000メートル、飛行時間は28分、距離にして18キロ。短いようで果てしなく遠い、自由までの道のりでした。気球の上ではどんなことを考えていましたか。

亡命の準備を始めた段階から一切の感情はシャットアウトしました。とにかく、必要なことを実行することだけに集中していました。感情はなかったんです。

熱気球で飛行している時、真っ暗闇の空の中に地上から3本のサーチライトの光が空に伸びているのが見えました。

光は私たちの気球の高さまでは到達しませんでしたが、「あぁ、見つかったな……」と思った瞬間もありました。

その後、サーチライトは消えて、私たちの気球の炎も消えてしまいました。この先どうなるんだろうなあと思いましたが、とにかく耐えるしかなくて……。そうこうしているうちに、気球が地面に着陸して、その時に初めて不安などの感情が戻ってきました。

飛行直後、気球のてっぺんには穴が空いてしまった。

飛行直後、気球のてっぺんには穴が空いてしまった。

ギュンター・ヴェッツェル氏提供

——逃亡劇はのちに「東ドイツからの最も華々しい亡命」と呼ばれたそうですね。『バルーン 奇蹟の脱出飛行』として映画化され、7月10日から日本でも公開されます。劇中、上昇する気球のてっぺんに穴が空いたシーンがありましたが、これは事実だったのでしょうか。

はい、実際にあったアクシデントでした。

亡命の決行は1976年9月15日、土曜日の深夜(16日午前3時頃)でした。これは前々からスケジュールしていたわけではなく、気象条件などもあって急遽決めたんですね。だから気球の上部はまだ未完成だったんです。

当初の予定では、気球のてっぺんにスチール製の輪っかをつけて、そこに材料を固定する予定だったのですが、それができず、布で応急処置を施しただけでした。気球が空に上がると思いのほか布にテンションが掛かって、ほころびてしまい、穴が空いてしまいました。

飛行中に気づいたんですが、そのときには恐怖とかはなかったんですね。気球も上昇していたので、「気球の上に星が見えるな」と思ったぐらいでした。感覚が麻痺していたんでしょうね。とにかく飛ぶしかない、無我夢中でした。

気球のゴンゴラは縦1.4メートル、横1.4メートル。床は厚さ0.8ミリの金属板だった。燃料はプロパンガス。4本のボンベが搭載された。

気球のゴンゴラは縦1.4メートル、横1.4メートル。床は厚さ0.8ミリの金属板だった。燃料はプロパンガス。4本のボンベが搭載された。

ギュンター・ヴェッツェル氏提供

ベルリンの壁崩壊「まさかこんなに早いとは……」

1989年11月9日、東ドイツの政治局員が記者会見で「ドイツ民主共和国はただちに出入国を自由化する」と発言。すぐに数千人の東ドイツ市民が国境検問所に押し寄せた。建設から28年、ついにベルリンの壁は壁は崩壊した。

1989年11月9日、東ドイツの政治局員が記者会見で「ドイツ民主共和国はただちに出入国を自由化する」と発言。すぐに数千人の東ドイツ市民が国境検問所に押し寄せた。建設から28年、ついにベルリンの壁は壁は崩壊した。

REUTERS/FABRIZIO BENSCH

——脱出後、西ドイツではどうやって暮らしたのでしょうか。

亡命した直後は気球による脱出劇ということもあり、メディア対応が大変でした。私としてはそういうものに関わらないようにして、とにかく自分の新しい生活を構築していくことに努めました。

まずやったことは自動車整備工の資格を取得したことです。その後は自動車業界で仕事をしました。日本の自動車メーカーのスバルとも、かなり長いこと仕事をご一緒しました。

再統一後は自動車関係の営業の仕事で旧東ドイツ地域を担当していました。住んでいるところは旧西ドイツ、仕事の担当は旧東ドイツという具合で。なので、東ドイツの街の変化を実際に自分の目で見ることができました。

John Waterman/Fox Photos/Getty Images,Sean Gallup/Getty Images

——亡命から10年で「ベルリンの壁」は崩壊しました。いつか壁がなくなる日が来ると思っていましたか。

過去、東ドイツにいた自分としては東側の動きは注意深く見ていました。なのでいつかは……とは思いましたが……。

再統一に向かう機運は、1989年にハンガリーからはじまった東欧革命のうねりにはじまります。その年の11月に「ベルリンの壁」は崩壊しましたが、まさかこんなに早く崩壊するとは思っていませんでした。でも、素直に嬉しかったです。

「壁」が崩壊してから、およそ1週間後のことです。私は長男を連れて両親に会いに行きました。妻は怖いからと行きませんでしたが(笑)。顔を見せると両親がとても喜んでくれました。

ただ、母だけは壁が崩壊する前に会うことができたんです。母は年金生活者だったので。東側には「年金生活者であれば西に行くことができる」という仕組みがあったんですよ。

「今の自由は当たり前じゃない」と生き証人として伝えたい

3月、新型コロナ禍について国民に演説するメルケル首相。東ドイツ出身で物理学の博士号を持つ。

3月、新型コロナ禍について国民に演説するメルケル首相。東ドイツ出身で物理学の博士号を持つ。

REUTERS/FABRIZIO BENSCH

——今年は再統一から30年の節目ですが、新型コロナウイルスが猛威をふるっています。3月にはメルケル首相が外出制限について理解を求めるメッセージを発し、話題になりました。ヴェッツェルさんと同じく、「自由」の価値を肌身で知っている東ドイツ出身のメルケル首相だからこそ、成し得た演説だと思いました。

今は非常事態なので、これはドイツに限らないことだと思いますが、一時的に移動の自由が制限されることになっても、ドイツ連邦政府がとった措置は必要だったと考えます。

連邦政府の対応については、もちろん間違いもあったかもしれません。

でも、とにかく未曾有の状況です。間違いつつも、しっかりと対応していくことが大事ですし、私はドイツ連邦政府はよくやっているし、正しい決定を下したと思います。それでも残念ながら、ドイツ国内で彼女を批判する声はあるんですね。

「ベルリンの壁」の跡。壁が存在したのは1961年8月13日から1989年11月9日までの1万316日間。2018年2月7日に、崩壊後の期間が存在期間を上回った。

「ベルリンの壁」の跡。壁が存在したのは1961年8月13日から1989年11月9日までの1万316日間。2018年2月7日に、崩壊後の期間が存在期間を上回った。

Andreas Rentz/Getty Images)

——西ドイツへの脱出を試みた東ドイツ市民は5万7000人以上、このうち成功したのは2万人にも満たなかった。「自由」を求めて国境を越えようとし、犠牲になった人々の命の重さについて考えさせられます。

だからこそ、若い人たちにお伝えしたいことがあります。今の時代、自由は当たり前のように享受できますが、ほんの30年前までそうではない時代があったということです。

今の自由は当たり前じゃない。その価値について、ぜひ理解してもらいたい。そのために、私の経験が若い人たちに貢献できれば嬉しく思います。

(取材・構成:吉川慧

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July 18, 2020 at 09:00AM
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