「日本っちゃ、強いなあ」。1941年12月8日、福岡県久留米市の国民学校(現小学校)6年生だった中村政夫さん(92)=北九州市=は、太平洋戦争開戦を知ってそう感じた。4年前から続いていた日中戦争が頭にあった。旧日本軍が米英両国相手に戦線を広げたことが誇らしかった。
開戦から1年半余りたった43年8月、中村さんは山口県防府市にあった海軍の通信学校に入った。理由は「国のため命を捨てるのは当然と教育されていた」。無線通信の基本を学ぶと、44年5月に輸送船に乗り込んだ。
そこから中村さんは何度も「死」を意識することになる。
台湾とフィリピンの間にあるバシー海峡を航行中に敵艦の魚雷が直撃し、海中に投げ出された。乗船時に渡された縄で船体の残骸に体をくくりつけた。「6~7時間は漂流していた」。近くに浮いていた人の手首を触ると脈がなかった。気が付くと、別の船の甲板に寝かされていた。
中村さんはフィリピン・ルソン島に上陸すると、南部のバタンガスという街に向かった。50人ほどいた上官や同僚は土のうで魚雷艇の基地を造り、中村さんは通信室で連絡業務に従事した。
ある日、帰港した魚雷艇が敵機の銃撃を受けた。中村さんの部屋にやけどで皮膚が焼け落ちた兵士が次々に駆け込んできた。上官の指示で日陰にムシロを敷いて寝かせたが、皆息絶えた。基地から港に向かうと、兵士のものとみられる肉片が散乱し、血の海が広がっていた。「まさに地獄だった」。中村さんは当時を思い出しながら、唇を震わせた。
45年春、基地からの撤退が決まり、山中を転々とする日々が始まった。手元に地図も時計もカレンダーもなく「いつどこで」は定かでないが、体験の記憶は今も鮮明だ。
移動経路を巡って意見が割れ、部隊は三つに分かれた。現地住民の抗日組織に銃撃され、仲間が目の前で頭を打たれた。残った3人で居場所を変えながら水をくみ、コオロギや毛虫、芋のような物を口にした。最後は散り散りになり、中村さんは1人で真っ暗な熱帯林をさまよった。抗日組織に捕まり刀で切られそうになった時、米兵がジープで通り掛かった。捕虜になったが、九死に一生を得た。
5時間近い取材で休むことなく従軍体験を語った中村さん。米兵との銃撃戦や現地住民を手に掛けたことも明かした。締めくくりは「だから戦争はやったらいけんということですわ」。
からの記事と詳細 ( 従軍、死意識した日々 「だからやったらいけん」 日米開戦80年 - 毎日新聞 - 毎日新聞 )
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