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Wednesday, February 2, 2022

「約束したんだから書くよ」…石原慎太郎さんの観戦記と共に駆け抜けた2002年日韓W杯の思い出 - スポーツ報知

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 文学界と政界を、まさに「無意識過剰」に駆け抜けた大物逝去の一報を聞いた時、私の記憶は20年前の初夏に引き戻されていた。

 1日、元東京都知事の石原慎太郎さんが亡くなった。慎太郎さんのもう一つの、いや、本当の顔は「太陽の季節」で社会現象を巻き起こした芥川賞作家。その証拠に日本中が日韓W杯に湧いた2002年6月、私は出版社の一編集者のように「作家・石原慎太郎」と打ち合わせ、その原稿をいただくために都庁のツインビルに通っていた。

 発端は2001年の社会部記者としてのインタビューだった。

 1999年4月の初当選後、ディーゼル車規制、大手銀行への外形標準課税導入案と次々と独自の政策を発案。就任時の「革命を起こしてやろうと思っている」という発言通り、強烈なリーダーシップを発揮中の知事への単独インタビューに、私は最大の緊張感と共に臨んでいた。

 陽光降り注ぐ特別知事室にジャンパー姿で現れた慎太郎さんは181センチの身長以上に大きく見えた。「待ったかい?」と言いながらも明らかに不機嫌そうな表情に政治家インタビューの常套手段として、「ディーゼル車規制ですが―」と政策面への質問から切り出した。

 途端に「いいんだよ、そんな話は。君は報知だろ。スポーツの話を聞けよ。俺は湘南、一橋とサッカー部のFWだよ」とピシャリ。その後、何度も経験することになる厳しい顔でしかりつけた後、くしゃっと、いたずらっ子のような笑顔を見せる独特の“作法”に、あっさりと心を鷲づかみにされた。

 説得力十分の俊足FWとしての思い出もたっぷりと聞いた後、最後に恐る恐る切り出した。

 「作家として、元プレーヤーとして、W杯で観戦記を執筆していただくことは可能でしょうか?」―。

 「そうだな。本番が近づいたら、また聞いてくれよ」と言ってくれた言葉に日韓W杯開幕を控えた02年。カリスマ知事としてさらに多忙を極めるスケジュールを割いての単独インタビューで再度、切り出してみた。

 「観戦記の件ですが」―

 後ろに控えていた特別秘書の表情が一瞬にして変わり、「それは…」と言いかけた。しかし、当のご本人は「俺が約束したんだから書くよ。埼玉スタジアムに俺用の執筆ルームは用意できるかい?」と“あの笑顔”で言ってくれた。

 6月4日には埼玉スタジアムでの初戦・ベルギー戦が迫っていた。もちろん都知事はVIP席で観戦するが、試合終了後に現地ですぐ執筆態勢に入るから専用室を用意できるかという問いかけだった。

 「やってみます」と答え、担当窓口にも働きかけたが、セキュリティー上の観点からもNGの答え。秘書を通じて報告すると、「それはそうだろうな。新聞としては当日入稿がいいんだろうけどな。じゃあ、じっくり書くから、試合翌日に載せてくれよ」と、朝刊スポーツ紙としてのこちらの事情も十分、考慮した上での答えが返ってきた。

 そして、2―2のドローで終わったベルギー戦後の原稿が素晴らしかった。

 正直に書くと、文壇一の悪筆と言われ、あらゆる編集者を「読めない」と嘆かせた慎太郎さんの手書きの文字を果たして活字に起こせるのか不安だった。しかし、自宅に飛ばしたバイク便で届いたのは端正なワープロ打ちの完成原稿だった。後に知ることになる実は几帳面な性格をそのまま現すような―。

 「大スタジアムのどよめき心地よかった」と見出しまで付けられた原稿は「どこかのテレビの女キャスターがいっていたが、これで日本チームの活路が開けたなどと、よもうかれて思いこまぬ方がいい。結果はただの引き分けでしかない。それでもよくやったというなら、負けても、よくやったということにしかなりかねない」と書き出され、「日本チームはその可能性を披瀝はしたが、結果は結果でしかない。引き分けで満足し、これでこの先はなんとかなるだろうなどと思うなら、甘えた話でしかない。「王将」の歌の文句ではないが、試合に出た限りは勝たなくてはならぬ。そこまで言うのはきつすぎるというなら、日本はスポーツ以外のいかなる勝負でも、敗戦から今までと同じようにこれからも他の経済、外交、文化、いかなる試合ででも今までと同じように外国に負けつづけるしかない」と続けられ、次戦のロシア戦に向け、「それでもなお、日本は次の試合では歴然と勝たなくてはならない。勝って初めて、日本は主催国の沽券も保てるし、日本という国の存在感を証すことが出来る。不当に奪われた北方四島奪還のためにもロシアに勝て、などといえば、そんな関わりない話をスポーツに持ちこむなという人も多かろうが、国際関係の現実は実はそんな事象ででも相手の力を計り合って進められるものなのだ。故にもなのだ。参加したことに意味があるなどというたわけた台詞が通るなら、世の中に競争も勝負もありはしない。手の指二本を開いて、「ピース」というだけでことがすみ旨くおさまるものではないということを、スポーツの試合こそが教えている。繰り返していうが、出た限りは勝たなくてはならぬ、勝たせなくてはならぬ。みんなしてワールドカップを勝ち抜こう」と、締めくくる過激かつ熱いものだった。

 そして、日本が決勝トーナメント初戦でトルコに0―1で敗れた後も「日本代表 まだまだ詰めが甘いのだ」の表題のもと、もう1本の原稿が届けられた。長文だが、「作家・石原慎太郎」のスポーツ観、政治観、世界観がそのままつづられていると思うので、ご本人がつけた小見出しとともに再録する。

 ◆ワサビと唐辛子

 ワールドカップという世界のお祭りは改めていろいろなものを教えてくれたと思う。時間的空間的に世界が狭いものになってきている今でも、周りが海という地勢学的な条件の中で暮らす日本人には、この期におよんでもまだまだ世界というものがよく見えていない節がある。

 世界は一つの家だとか、人間はみんな同じ家族のようなものだとかはいってもそれはそれは一つの理念であって、現実にはそんな願いを裏切るような出来事が絶えることがない。人間という生物が誕生し、それが進化し分化し、種族が生まれ民族となり国家を形成もしてきた。その過程に生じてきた、価値観も含めてそれぞれのもろもろの違いはそう簡単に埋まりはしない。

 ワールドカップはそれを、サッカーという本能的なスポーツを媒体にして埋める手立てとしても大きな意味がある。しかしなお、同じ競技の中で見られたそれぞれのチームのお国ぶりの違いは歴然としていて、あらためてそれぞれの国家民族の個性を覚らせてくれた。アジアの同じ主催国でありながら日本チームと韓国チームの著しい違いは、その成績に限らず二つの民族の価値観や情念の違いを如実に感じさせてくれた。同じサッカーのお祭りに関しての二つの国の熱狂ぶりの違いは、両国の比較論で優れた呉善花さんの、何についても日本人の激しさはワサビの辛さに似ているが韓国のそれは唐辛子のそれだという例え通りだった。

 ◆外交も政治も

 そうした比喩も含めて、国家や民族の性情が露呈するああしたエベントの中に現れた、自らの個性の対比的な良し悪しを将来のための反省の糧としたいものだ。日本が決勝トーナメントの冒頭で無念の敗退をした後、卓抜なゲームメイカーの中田(英)が、日本チームには何かが足りなかったと語っていたのは極めて暗示的だった。あの対トルコ戦では日本は六分四分で相手を押していた。人間には不可知なゲームの運不運を私も疑わないが、しかしなお、あのたったの一点を失わしめたコーナーキックはバックスの気の抜けたクリアミスからだった。本質的にはかってのドーハの悲劇と呼ばれている、じつは誰かが出ていくだろうという安易な他力本願の喜劇的な結果と同質のものでしかない。

 つまり、あの可憐に戦った日本代表にして、まだ甘いのだ。最後の詰めが甘いのだ。それ以上に、日本の外交も他の政治もおよそ詰めがなく大甘に甘いのだ。

 今も手元に残るワープロ打ちの原稿を久しぶりに読み返すと、最後の「大甘に甘いのだ」という言葉が、誰よりも日本を愛した慎太郎さんの日本国民への、日本という国への早すぎる遺言のように私には読めた。

 政治家として所属した「青嵐会」のごとく嵐のように駆け抜けた89年の生涯。他人のことをまったく気にせず、我が道を行く、その生き方を「無意識過剰」と評したのは99年に自死した文芸評論家・江藤淳氏だった。

 「無意識過剰」の大物に振り回されたものの結果的に、まさに「玉稿」としか言いようのない原稿をいただいた20年前の夏は、慎太郎さんに接した記者が皆そう感じ、振り返っているように私にとっても「太陽の季節」だった。そして、あの日々は、もう戻らない。(記者コラム・中村 健吾)

 ◆石原 慎太郎(いしはら・しんたろう) 1932年9月30日、兵庫・神戸市生まれ。弟は歌手・俳優の石原裕次郎さん(87年死去)。神奈川・湘南高卒業後の52年、一橋大法学部に進学。在学中の55年に「太陽の季節」で芥川賞を受賞。「太陽族」の流行語を生み出す。68年、参院選に初当選。72年、衆院に転じ、環境庁長官、運輸相を歴任。95年に辞職。99年、東京都知事選に出馬し、当選。4期目の途中の12年に辞任し、新党「太陽の党」を結成。その後、日本維新の会に合流し同年12月の衆院選に比例代表で当選。17年ぶりに国政復帰。14年、「次世代の党」を結成。同年12月の衆院選に比例単独で出馬し落選。政界引退を表明。最後まで作家として健筆をふるった。

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