かつて、奥秩父の山深い村で、こんな言葉を聞いたことがあった。小正月の削り掛けの聞き書きをするために、山の斜面に開かれた小さな村を訪ねた。小正月の行事についてたくさんのことを教えていただいた。山の神の祠[ほこら]にお参りに行った。その人はミズキの木を見つけて、指を差しながら言われた。「あれは役立たずの木だから、だれが伐[き]ってもいいんだよ」と。
心に残った。その一瞬の情景すらくっきりと浮かぶ。この村では、小正月に家のなか、納家や蔵、屋敷地のいたるところに、削り掛けと呼ばれる木の祭具をお供えする。家中の小さな神々に年の初めの祈りを捧[ささ]げるのである。その素材に使われるのがミズキだった。これは東北では、やはり小正月のダンゴサシに使われる樹種である。その木がなぜ、役立たずの木なのか。
不思議ではあったが、そこでの役立たずはけっして否定的な色合いではなかった。つまり、無能だ、生産性が低い、存在する価値がない、といった肌触りはなかった。むしろ、小正月にはどの家でもミズキは欠かすことができない。どこの、だれの持ち山でもいい。小正月の前には、眼[め]をつけておいたミズキを伐って、それを材料にして削り掛けを作る。奥秩父の村の削り掛けはとても繊細で、美しい。家ごとに微妙に違う。いわば、ミズキは小正月の家祭りに飾られる聖なる木なのである。
だから、ミズキは日常の用途からはあえて外され、小正月のために猶予されている。しかも、小正月の前だけに、たぶん所有関係からは切断されて、無主の木としてだれもが自由に伐採することを許されているのだ。役立たずとは、無用として貶[おとし]めているのではなく、聖なる木としてさりげなく保護しながら、ある期間だけ伐採フリーとして、すべての人に解放されるために用意されていたのではなかったか。役立たずとは、とても精妙な呪文のような言葉だったのである。
縄文時代のある遺跡から人骨が出土した。年齢は十五歳程度の女性の人骨であった。小児麻[ま]痺[ひ]で手足の骨が細く、とても華[きゃ]奢[しゃ]だった。労働には適さない。しかし、彼女はたくさんの貝製の腕輪をはめ、首飾りをして葬られていた。おそらくムラの巫[み]女[こ]として、神々と交わる聖なる役割を演じていたのだ。少なくとも、彼女はその身体の障がいゆえに、生存を拒まれたり疎んじられることはなかった。短い生涯を、労働には関わらずに、しかも普通の人には許されぬ聖なる役割をもって全うしたのである。
津波に流された三陸のある漁村で、鹿踊りの供養塔を見かけた。そこには、生きとし生けるものすべての命の供養のために、この踊りを奉納する、と刻まれてあった。仏教的な生命観では、命あるものに有用/無用といった区別はない。そうした思考を退ける。だから、役立たずな人も、役立たずな物も存在しない。きっと、役立つ人ばかりでは社会は暴走して、やがて壊れてしまう。そんな役に立たぬことを考える時間を大事にしたい。(赤坂憲雄・北方風土館館長)
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